「病人」は誰がつくるのか?― インドのヨガセラピーが教えてくれたこと

「病人」は誰がつくるのか?― インドのヨガセラピーが教えてくれたこと

そこに「病人」はいなかった

リーラ・パレス・バンガロール
バンガロールのホテル

インド・バンガロール。
私が学んだヨガ大学のエントランスには、いつも人が集まっていました。世界中から、ヨガをセラピーとして学ぶ人が訪れる場所。待合のベンチには、現地で治療中の人、慢性的な不調を抱える人、家族に付き添われて来る人 — 背景の異なる人たちが、同じように座っています。

私たち日本人が座っていると、必ず誰かが話しかけてきます。
「心臓の治療中でね」「血圧が高くて」「膝が悪くて」…… 心臓病、高血圧、精神的な不調。それぞれ事情を抱えながら、同じベンチに並んでいます。
クラスの見学に入ると、彼らはマイペースにヨガを実習します。誰かが遅れても気にしない。途中で休んでも、誰も急かさない。先生も、ただ静かに見守っています。

しばらく見ていて、私はあることに気づきました。誰が病気を抱えているのか、見た目ではまったく分からない。途中で動きをやめる人。途中で横になる人。授業のあと、学生と談笑している人もいる。そこには「病人」という空気がありませんでした。ただ、一人の人が、そこにいる。それだけでした。

私たちは、いつ「病人」になるのだろう?

日本の病院の待合室
日本の病院の待合室

ふと、日本の病院の光景を思い出しました。
待合室に座ると、自然と静かになる。受付番号を確認し、呼ばれるまで待つ。知らない人同士で会話が始まることは、ほとんどありません。もちろん、それが悪いわけではありません。けれど、そこにはどこか緊張した空気があります。「患者」としての時間。「治療される側」としての立場。

インドのエントランスでは違いました。
知らない人が普通に話しかける。自分の病気の話も、重くするでもなく、隠すでもなく、ただの近況のように話す。特別な出口も、特別な列もない。授業が終われば、みな同じ扉から出ていきます。

そのとき、ふと思ったのです。
「病人」とは、いったい誰がつくっているのだろう。

「病気」vs「病人」

日本語の病気という言葉は、病は気からとも言われるように、状態を示す言葉です。ヨガの病理論でも、病は身体・呼吸・心のバランスの乱れとして捉えられます。それは状態であり、その人そのものではありません。病気は、状態。

けれど、「病人」はどうでしょう。
病気になった瞬間、その人の価値が変わるわけではない。その人の本質が、1ミリでも減るわけではない。にもかかわらず、環境によっては、その人が「病人」という役割をまとわされてしまうことがあります。
もしかしたら、「病人」という存在は、環境がつくるのではないでしょうか。

人はどこまで環境に影響されるのか

心理学には「ネイチャー(生まれ持った性質)」と「ナーチャー(育ってきた環境)」という議論があります。人は、生まれか。それとも、育ちか。
けれど、インドでの経験を通して、私はもう一つの視点を持ちました。それは、今、どんな環境の中に身を置いているかという問いです。
人は、環境の中で呼吸をする。環境の中で、自分を認識する。そして、環境の中で回復していく。

“ホテルのような刑務所”が語ること

さまざまな人々が交差する
さまざまな人々が交差する

ある国で、刑務所の環境を大きく変えたエピソードがあります。
無機質で閉鎖的だった空間を、明るく整え、まるでホテルのようにしました。「甘やかしではないか」と批判もあったそうです。けれど結果は逆でした。再犯率が下がったのです。

人は、環境の中で自分を定義します。ずっと「囚人」として扱われ続ければ、その役割を内面化してしまう。けれど、環境が変わると、「人」として扱われる感覚が戻る。その安心感が、自分を立て直す力になる。
この話は、病気にも似ているのではないでしょうか。

私たちは“空気”で人を縛っていないか

このヨガ大学では、病気を抱えている人が「病人」として扱われません。だからこそ、自分を「病人」として固定しなくてすむ。
もちろん医療的な配慮は必要です。症状に応じたサポートも欠かせません。けれど —「あなたは病気だから特別です」という空気が強くなりすぎると、その人の可能性を狭めてしまうこともあるのではないでしょうか。

私たちは知らないうちに、人を“状態”で呼び、人を“役割”で見てしまうことがあります。けれどヨガの本質は、もっと奥にあります。人は、本来の自分に戻る力を持っている。その前提に立つ環境では、人は「病人」ではなく、「一人の人」として呼吸を始めます。

ヨガという環境があなたを取り戻す

ヨガセラピーは、病気を治すための特別な技法ではありません。それは、人が「本来の可能性」を思い出すための環境そのものなのだと、私は感じています。呼吸を整える。身体をゆっくり動かす。自分の内側に気づく。その静かなプロセスの中で、人は「私は病気だ」というラベルから、少しずつ距離を取りはじめます。
誰もが同じマットの上に座る。誰もが同じ空間で呼吸する。誰もが、一人の人として扱われる。そこには、特別扱いも、過度な同情もありません。
ヨガそのものが、人を“状態”ではなく“存在”として扱う環境になっているのです。

人は、環境の中で自分を思い出します。
もし私たちが、「あなたは病人です」という空気ではなく、「あなたは、ひとりの人です」という空気を選べたなら。回復は、もっと自然に起こるのではないでしょうか。
インドのエントランスで見た光景は、その可能性を、静かに教えてくれました。
ヨガは、ラベルを剥がす技術ではなく、ラベルが必要なくなる環境なのだと思います。

さて、あなたは、どう感じましたか?